一眼レフとの出会い②(Canon A1)
前回のお話から続きます。
しばらくPENTAX SPOTMATIC(以下SPと表記)で友人Tと撮り鉄をやっていたが、その友人TのカメラはNikon のNikomatシリーズのELというモデルだった。
それは、絞り優先AEが付いていて、自分のPENTAX SPと比べると露出決定までのプロセスが短く、とても羨ましかった覚えがある(あとで調べて知ったことだがELはNikon初の絞り優先AE機種だったらしい)。
半年だか1年位たった頃、また例の伯父がそろそろ(自分に貸した)SPに慣れただろうし、今度は次のカメラを自分に買ってやると言い出し、二人で新宿西口のヨドバシカメラに出かけた。
候補としては友人TのELに近い使い勝手のNikonのFEが上がっていたが、結局は対抗馬で当時出たばかりのCanon A1を買ってもらった。
それは今では当たり前だが、絞り優先AEだけでなくシャッタースピード優先、さらにはプログラムAEも搭載され、ファインダー内が指針表示ではなくデジタル表示という先進性溢れるモデルだった。
SPのアナログな感じとは真逆の感じがとても新鮮で、中学生のガキには不釣り合いなほどの宝物であり、結局その後20年もの間使うこととなった。
購入当時はモスクワ五輪前だったこともあり(結局日本は不参加になったが)、レンズキャップにモスクワ五輪のデザインがプリントされていたのが記憶に残る。
その後は、撮り鉄だけでなく、なんとなく港やら風景とかも撮ったりしていたが、大人になるにつれ他の遊びの方が忙しくなり、A1を持ち出す機会は次第には無くなっていった。
結局は大人になって再びカメラ遊びを始めた時には既にオートフォーカス機が主流となっており、時代遅れなA1とそのレンズ達は中野のフジヤカメラでドナドナとなってしまった。
買取金額は昼飯1回分程度にしかならず、かなりガッカリした記憶がある。
今のオールドカメラブームならば、それなりの値段で売られているんだが、売却時はオールドカメラブームもそれほどでなかったんだね。
数日後フジヤカメラを訪れた際は、自分が売却したと思われるシステムの大半がジャンク棚に鎮座している光景を見て寂しく感じた記憶がある。
そんな感じで、今でも中古カメラ店でSPやA1を見るとふたたびフィルムカメラをやりたい衝動にかられるんだが、散財するのが目に見えているので、なんとか堪えているのが実情である。
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一眼レフとの出会い①(PENTAX SPOTMATIC)
まずはこのブログを始めるにあたって、自分の一眼レフとの出会いを振り返ってみることにする。
まあ人様にはどうでもいい話だが、まずは自己紹介の意味合いと時代感の共有ということで。
記憶は定かではないが中学二年生位の時に、親戚の伯父から「これをしばらく使ってみなさい。」と突然一眼レフを手渡されたことが始まりだ。
その伯父は、バイク、釣り、カメラ、時計などのギア類に対するこだわりが非常に強くて、完全に趣味に没頭した自由人だった。
伯父には子供がいなかったこともあり、次々といろんなものを持ってきてはその使い方を甥っ子である自分に教授してくれた。
すでにその一眼レフの前にはコダック社のポケットカメラ(型番失念)や、またコーヒーサイホンを買ってきては「これを使え」の前例があったんだ。
だからその時の「これを使え」もさして驚かなかった。
今思えばその一眼レフこそ、当時世界的なベストセラーだったペンタックスSPORTMATIC+タクマー55ミリであった。
それはもちろん露出計は内蔵されてはいたんだがマニュアルのみの設定。
レンズの絞りリングとボディのシャッタースピードダイヤルをチョイスして、結果はファインダー内の露出計(プラスとマイナスの間を針が行ったり来たりするだけ)を確認して撮るというものだった。
今から考えれば、始めにマニュアル操作から一眼レフにいそしんだことで、空間の絶対的な光量というものの感覚をつかむことができたんだと思う。
また、そのカメラの質感、特にレンズであるタクマーのアルミ削り出しの冷たい触感が自分の記憶とともにレンズ品質の基準となってしまった。
今では、工業用プラスティックが多用されたモデルを所有したときは今一つ満足感が得られないようになってしまった。
当時撮るものと言えば子供だからか必然的に「鉄」。
近所の幼なじみのTとよく上野や東京にブルートレインを撮りに行っていたものである。
今押入れを探してもそんなネガやプリントしか残ってないので、きっとそれしか撮っていなかったのだろう。
つづく…
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